組合の創生期(その1)

 こうした、板橋区の発展に伴い、浴場も江戸時代からの旧宿場地域、明治大正期に興った工業地域、大正末昭和初期の住宅地域と、次第に数を増し発展してきた。

 公衆浴場史によれば、明治12年(1879年)10月3日、東京において初めて、警視局令として、「湯屋取締規則」が制定され、湯屋組合の設立を認め、従来の仲間に代わる新組合が創立された。これは前年の11年5月16日、東京府の布達で、湯屋は自今、内務省警視局に開設の書類を提出することとなったからである。
他の地方庁もこれにならい、かくして全国にそれぞれ組合が結成され、漸次統合拡大して道府県組合となった。明治40年(1907年)11月に東京市15区と南葛飾、北豊島、豊多摩、荏原の4郡の湯屋約1,000軒が統合して「東京浴場組合」を創立し、初代会長に小沢弘清が選ばれている。明治45年には二代松崎権四郎、幹事長に伊藤赤太郎が就任している。

大正期、浴場の組織は北豊島郡(現在の板橋区、北区、豊島区、練馬区、荒川区の地域)を一丸とする大きなものであったが、逐次分立し、昭和4年板橋町、上板橋村、志村、赤塚村に所在する浴場を統合して、板橋浴場組合が組織され発足した。
 尚、練馬地区には武蔵野組合(組合員数6軒)があった。分立した各組合の連合会はこの後も存続した。
大正5年には三代会長に小森助次郎が、幹事長に赤塚五郎が、副幹事長には田村和三郎が就任している。大正10年には四代会長に赤塚五郎が、幹事長には田村和三郎が、副幹事長には水谷金次郎が就任している。